自分のした結果が、全て自分に返ってくる。
家族と生活していたら出来ない経験をしています。
杉浦 貢 (すぎうら みつぐ) さん
1974年生まれ。
出生時のトラブルで脳性麻痺と診断される。
幼少期は、車いすに乗って普通校に通い、健常の子供たちの中で育つ。
22歳で自立生活をはじめ、22年が経つ。
現在は小学校での講演活動に力を注ぐ。
学校訪問について
杉浦さんの活動を知るために、月に1~3回行っているという、小学校での講演に同行させていただきました。
平日。八王子市内の小学校。三年生の道徳の授業でした。
まずはクラスに分かれて、手動車いす体験から。
車いすを押す子と、それに乗る子。障がい物を乗り越えて進んでいくコースが組まれていました。
体験を終えて。
「押してみてどうだった?」
「乗ってみてどうだった?」
というところから杉浦さんのお話が始まりました。
それは、
“隣にいる誰かが今どんな気持ちかな?”
というような、当たり前の道徳心を丁寧に言って聞かせ、子どもたちに想像させるものでした。
ーきっかけは?
通所訓練事業所の職員に依頼されたことがきっかけですね。
通っていた通所訓練事業所の職員が、自分の子どもの通う小学校で話を出来る人をさがしていて。
当時その作業所で、“人前で話すことが出来て、子どもや先生の質問に答えられる人”といえば僕しかいなかったですから。
ーはじめての講演を覚えていますか?
最初は悪戦苦闘。
まず、子どもとの距離感をどう取るかが難しかったです。
はじめは“杉浦様”と呼ばれてしまって…。
子どもとの間に壁を作りたくなかったので“みっちゃん”でやらせて貰った時期もありました。
ですが、授業なのであまりフランクにしてはいけないと思い始め、今は“杉浦さん”で落ち着いています。
ーどんな気持ちで挑みましたか?
はじめは、“ガキに何を教えてもしょうがない”という気持ち。
それでも、依頼を受けるからには最高のものにしたい。と、挑みました。
いざ、講演してみたら子どもたちが喜んでくれた。
たとえ内容は覚えていなかったとしても“車いすのおじさんと話して楽しかったよ。”という記憶がのこれば、いいのかな、と。
ー話す内容は用意していかれましたか?
もちろんです。
初めの頃は、何をどのようにどこまで話すべきか、PTAや先生方を交えてのセッションを行いました。
当日までにたくさんの時間をかけて検討しました。授業なのだから内容のあることを話さなければ、と。
仲間内で専門用語でしゃべることは簡単にできるけど、知識のない子どもの目線に下げて話すことが難しかったですね。
そのために児童書や絵本を読み漁り(当時、障がいについて描かれた絵本が出始めていた)、どんな風に伝えれば子どもに伝わるのかを勉強した。
児童心理学までも取り入れて、話の組立を考えました。
ーそこまでのモチベーションはどこから?
大変だけど、自分に出来ることはしゃべることぐらいだから。
自分自身、障がい者ではあったが普通校に通った。
(健常者の中で育って)自分の体や心の悩みが出てきても、答えてくれる人が誰もいなかった。
家族も健常者だったから、何もしてくれなかったし、何も出来なかった。
“自分の障がいについて”や、“ほかの障がい者について”知りたかった時に知る術がなかった。
普通校でひとりぼっちだった。
自分で手探りで探るしかなかったんです。
このモチベーションは、学校生活の中でできなかった事を取り戻すことから来ているのかもしれない。
もし障がいのことについて誰かに聞かれたとしたら、完璧に答えてあげたい。という思いがある。
上から教えるのではなく、“子どもの知りたいこと”に寄り添って答えてあげたい。
電動車いすにのるということ
ー電動車いすに乗るようになってからどれくらいですか?
自立生活してからなので22年くらい。
最初のころは手動と半々だったけど、行動範囲が広がるにつれて電動の割合が増えたかな。
ー電動車いすに乗るメリットは?
電動車いすは、目的地に着くまでの体力を温存することが出来る。
私の場合は、しゃべるだけでも体力を使うので、手動車いすでヘルパーに指示を出すことが疲労につながる。
電動車いすは、“運転をする”のではなく“体の一部”になっていて。
自分の行きたいところへ、行きたいタイミングで行くことが出来る。
それに、近所のコンビニに行くくらいなら一人で行ける。
買い物をヘルパーに頼むことも出来るけど、
自分でお店に行って、
自分で商品を選び、
自分で購入することができて。
“自己決定”を増やすことが出来るかな。
他にも、街に出ると小さい子どもが近づいてくるんだよね。
関わり合うことで、得られる反応が楽しい。
自立生活のお話
ー自立生活を始めたのはいつからですか?
22歳のときからです。
ーきっかけは?
夜遅くなるから先に寝ててくれと母親に言ったが、明かりをつけて待っていた。
それを見た瞬間。ありがたいとは思う反面、
“これじゃあ愛情で殺される”と思ったわけです。
“わたしはこれだけあなたのことを心配してますよ”
と押し付けられている気がして。
このままでは人間としてダメになってしまう。そう思ったのがきっかけでした。
—自立することについての両親の反応は?
それはもう反対されましたよ。
やったことない事をこれからやろうとしてるのに、“やったことないから無理”と言われた。
一週間ほど罵倒合戦でしたね。
ありとあらゆる相手のコンプレックスを徹底的にいじりまくる、という…笑。
—自立生活をするにあたって何をされましたか?
やがては自立生活するんだろうなぁ。とは思っていたけど、何をどうしたら良いか全くわからなかった。
はじめは、すでに自立生活をしている先輩の家に泊まりに行って、酒を飲みながら話を聞きました。
ヘルパーのことや、生活のお金のこと。どのように稼いでいるのか。
悪いことも良いこともいろいろ教えてもらいましたね。
“自分より重度の人がやっているんだから、俺にもできないことは無いなぁ”と思いました。
—実際に生活をするための準備期間は??
一年半~二年くらいかな。
物件探しは、自立生活をしている障がい者をすでに受け入れている不動産屋があって、
居宅改造のノウハウも知っていたので困らなかった。
あとは、家族の説得。
身元保証人が親しかいなかったので、説得せざる終えなかった。
図面や居宅改造の打ち合わせ不動産屋との交渉、手続きもすべて終わらせて、
後は判子だけ捺してもらう状態にして親に持って行った。
それが逆に母親の逆鱗に触れてしまって。
「なんでそんな大事なことを親に全部内緒でやるのか。」と。
親の過干渉から逃れたくてやっているのに、
そこで親に頼ったら何にもならない。というのが僕の言い分で。
一世一代の大ゲンカ。
母子の溝は埋まらない。
そこまで何も言わなかった親父が
“何かあれば戻ってくればいいじゃないか。失敗してもやり直しがきくんだから好きなようにやりな。”
と背中を押してくれて、家を出ることができた。
—実際に生活をしてみてどうでしたか
自分に何が出来るのか、何ができないのかを知るために最初の一週間は一切介助を入れず、自分で生活をしてみた。
コンビニでお弁当を買ったり、はじめなので誰かが差し入れをしてくれたりもした。
一週間かけて、どこまでやってもらわなければならないのかを、自分の体で確かめました。
布団は湿ってるし、絨毯にダニがわくし、食器は汚れっぱなし。
トイレの掃除もできない。
死ぬ。と思った。人間汚れで死ぬんだなあと。
二週間目からヘルパーを入れた。
どうにもならない体験をした後だったので、
自分がやらなきゃいけない事を人にやってもらうという事は
“なんて偉大な事なんだ”
と、感謝の気持ちでいっぱいでした。
—自立生活をしてみて良かったことは?
親にとやかく言われずにゲームができたことですね。
お酒を飲んだり、羽目を外すことが出来た。
親元にいた時は、家族が自分に愛情を向けてくれるから、それにこたえなければ、というプレッシャーが常にあって。
小さいころからそういう気持ちがずっとあったんですよ。
ひとり暮らしをするようになって、まず“自分が何をしたいか”、で決めていいんだと気づいた。
親元にいた時は守られ過ぎて、転ばせてももらえなかった。
守られてばかりだと、転んだ時にどうしたらよいか、怪我したときにどうしたら良いか、学ぶことが出来ないんです。
良いことといえば、
悪いことも全部含めて経験値になることかな。全て自分の肌で感じることができますから。
—しんどかったことは?
40度の熱がでた時。
下痢と嘔吐があり電話をかけることもできなかった。
死ぬのかなぁ、と思った。
…
今は“死ぬことも自分の責任”と思っています。
災害が起きたら死ぬだろうと思っている。
だからこそ、やりたいことをやって生きていく。
精神的な自由を手に入れた。
手厚いケアや物質的な豊かさを求めるのではなく、“自己決定できる幸せ”を選んだんです。
ー杉浦さんの自立心の強さはどこからくる?
それは…
奪われたことが無ければわからない。
喪失感があるからこそ、それを取り返そうとしている。
満ち足りていると、どうにかしようとは思わないから。
ー家を出て22年。今どうですか?
親に自由な時間を返すのが、子どもの恩返し。
自立して3年目くらいでそう思った。
今振り返ると、“あの時家を出て良かった”と思う。
自立生活を始める時期が、あれより遅れていたら、親も大変だった。
今、この年で自立生活をしようと思っても出来ないだろう。新しいことを始めるエネルギーが無いから。
生活の基盤をあの時しっかり作ったから、いまがある。
若いうちにやってみる。
間違えてみることが大事。
ー自立生活の意味とは。
自分のした結果が、すべて自分に返ってくる。
家族と生活していたら出来ない体験をしていています。