“棚ぼた人生”で受傷からの職場復帰、結婚、海外旅行

西田 正純 (にしだ まさずみ) さん
26歳の時に友人と出かけた海水浴で首に怪我を負いました。
診断は頚髄損傷C6-B1。体の状態は脇から下が麻痺。腕の機能は少し残っていますが不自由な状態です。
受傷から4年間の間に3つの病院や施設でリハビリを行いました。色々な方の力添えで職場復帰を果たし、定年まで勤めました。現在は受傷後に出会った奥様と二人暮らしをされています。
口癖は“吾輩の辞書に努力の二文字は無い”
自分のことを“怠け者”“棚ぼた人生”と話し、困ったり進路に迷ったらいつも助けてくれる人が現れたとおっしゃる西田さんですが、今回伺ったお話の中で苦労を苦労と感じないような、何が起きても“しょうがない”と受け入れてしまう、心のおおらかさが見えました。

 .受傷~入院生活

受傷したのはいつですか?また、その経緯を教えてください。
26歳。社会人3年目でまだ独身の頃でした。

受傷前の西田さん。休日は友人と車で日本旅をしていました。

友人二人と、伊豆の戸田にある海水浴場に車で出かけたんです。
途中だるま山の上へ行きました。受傷する前の晩でした。
車中泊をした際に空を眺めたら、流れ星がばんばん飛んでて。
「これはもう僕の将来はバラ色だ。」
と思った。
しかも下には富士山のシルエットが綺麗に見えていた。
その頃は職場関係のことで気分が落ち込んでいたが、将来良い事しかないなぁと感じた。

 

受傷前の西田さん。休日はよく、友人と車で旅をされていたそうです。

 
翌日。山を下りたところが戸田の海水浴場でした。
水面から1メートル位の高さの丸太で組んだ櫓があり、そこから何度も飛び込んで遊んでいた。
天気が良く、富士山もよく見えた。
 
「あぁ、こんなに世の中晴れ晴れとしているのに、自分だけなんでこんなにぐちゃぐちゃなんだろう。」
 
怪我をした時は、ふわりと力を抜いて飛びこんだ時だった。
スピードが落ちてきたのでさぁ泳ごうと思ったときに、手が動かなかった。
足も何も動かず、仰向けになることも出来なかった。
息が出来ないので、“しょうがない”と息を止めていた。
そのうち、意識を失った。
 
友達ふたりは櫓の上から見ていた。
“また、ふざけてあんなことやってる。…それにしても長いなぁ。”
“ちょっとおかしいから見てみよう。”
と、かけつけて仰向けにしてくれた。
すると意識がなかったので、浜まで引きずってくれた。
 
その途中で自然に呼吸が回復し、意識も戻った。
目を開けると青空が見えて、波の音が聞こえた。
 
「…一体、何してんだろう??」
 
浜まで来て、友達二人が水から浜に引き上げるために両肩を持ち上げると首がガクッと落ちた。
この時に、首がめちゃくちゃ痛いのがわかった。
首がなにかおかしい。
 
村の診療所に行くと、
「うちじゃ、どうしようもない。」
と他の病院をあたってくれて、伊豆長岡の大学病院に搬送された。
 
その日のうちに母が呼びつけられて、泊まり込みで身辺の世話をしてくれた。(その頃は完全看護ではなかった)
39度の熱が一週間くらい続いた。
その対応に追われて先の事など考える余裕も無かったが、母にはその後3年間付き添ってもらうこととなった。
母は医者から“この人はもう一生歩けない”と言われたそうだ。
相当落ち込んだであろうが、私にはそんな姿は見せることは無かった。
 

西田さんとご家族

一年のリハビリの後、ADL訓練をしてくれる転院先を探すように言われた。
 
見つけた病院はリハ科のある病院。
元の病院から30分ほどのところにあった。
 
そこでは手動車いすを漕いで腕の筋肉をつけたり、手にスプリントを付けて、字を書く練習や、電動タイプライターの練習をした。
 
ー入院中の気持ちは?
「人に世話してもらって楽だなぁ。」と、気楽な気持ちでした。
なるようにしかならない。
先の心配をしたことは一度もなかった。
 
-リハ中は将来のことを考えなったですか?
うん、まぁ家で面倒見切れなかったら、施設にでも入るんだろうなぁというぐらい。
 
その頃、職場の上司から「職場復帰の意思があるなら、こちらは受け入れるから意思表明をしてほしい。仕事は君にあったものを考える」と、連絡があった。
それを聞いたソーシャルワーカーは当初「あなたの身体では復職は難しい。そんなことをしても、辛い思いをするからやめたほうがいい。」と反対していた。
 
その後も総務部長や組合の幹部まで、“見舞い”と称して様子を見に来た。
 
入院して二年が経つ頃。 ここではもうやることがない。と、訓練センターに入所することをを勧められた。

 

更に出来ることを増やすために、伊東にある国立伊東重度障がい者センターに入所し訓練を行った。
そこでは、当事者自身が生活動作の方法を編み出し、それを教え合う様子が魅力的に映った。
 
センターには復職の情報が伝わっていて、それに向けての活動を支援してくれた。
「西田君、復職の話があるんだって?その話をすすめましょう。」と、指導課の担当。
その頃、傷痍軍人のリハ→脊損リハ→頚損リハへと移行している頃だった。
頚損に脊損向けの職業全訓練を施しても復職出来る例は少なく、センターとしても方向性を迷っているところだった。
そこで、“こいつに力を入れて、入所者に訓練目標を作ってやろう”と。試験台になった。
指導課の担当者が、すごい努力をしてくれた。
職場との連絡や、健康管理医(これが認めなければ復職が出来ない)との面会を設定してくれた。
 
センターは訓練する場所なので皆手動車椅子に乗っていたが、「君は復職するんだから電動車いすが必要でしょう」ということで、一人だけ電動車いすに乗っていた。
だいぶいじめられたけどね。“あいつはなんで電動に乗ってるんだ”と、落っことされそうになったり。
 
 
 
2.職場復帰
怪我から3年半、休職期間の期限が迫った頃。
どうしようかと、外泊訓練で帰省したついでに職場に顔を出してみた。
休職中なので職場に来てはダメと言われたが、「たまに職場の人の顔を見に来るのはいいですか?」と聞くと「それはいいですよ。」と返事をもらったので、遊びに来たという名目で結局毎日通うこととなった。
外泊中は毎日フルタイムと同じ時間、職場へ出向いた。
通勤手段がなかったので、大学生の弟が三か月間毎日車で送迎してくれた。

 

三か月間毎日通勤するのはすごいことですよね。なぜ、そこまでしたんですか?
元々お世話になった上司が、普通ではありえない復職の提案をしてくれたので、自分にやれることは精一杯やって恩返ししたいという気持ちだった。
職場では車椅子でも使える机を用意してもらい、電動タイプライターで和訳の手伝いをしていた。
休職期間の最終期限である、その年の3月31日。
自然消滅だろうなぁ。と思っていたが、職場の健康管理医が事もあろうに“仕事に耐えうる身体である”と一筆書いてしまい、復職が決まった。
そのまま4月1日から辞令が降りた。
 
「これから毎日通うことになるのか。大変なことになった。」
 

職場の同僚と(一番左が西田さん)

 
 
 
3.仕事について
-どんな仕事をされていたんですか?
日本で初めての放送・通信衛星に関わる研究所にいた。
僕はそこで、外国の衛星事情の雑誌を和訳する仕事をしていた。
和文タイプライターで出力して、週に一度研究所と上部組織に向けて発行していた。
OT訓練で行っていたタイプライターが役に立った。
 
そのあとは、40歳くらいになってから研究をやれと言われた。
数学も忘れていたので、今更研究か…と思ったけど“しょうがない”と。
 
そして新たに開発していた実験衛星が完成し、実際の実験が始まる頃。
部隊は茨城県の鹿島へ完全に移動した。
僕は車いす生活する為の住環境をを一から作ることが難しかったので、“ついていけない”と残った。
 
そこで拾ってくれたのが通信に関わるユニバーサルデザインの部署。
福祉機器を開発する部署で、“障がい者なので調度いい”と声がかかった。
 
 
 
4.奥様との出会い
復職後、普通型の車椅子で座りっぱなしだったので座骨に褥瘡が出来てしまった。
ごまかしながら働いていたが、外部からの期限付きの仕事がきて無理をしたところ悪化させてしまった。
毎晩熱が出て、歯がガタガタと震えた。
我慢したが耐えきれず、復職から4年経った頃、元の病院に入院することになった。
 
久しぶりに戻った病院には新しい看護師さんが入っていて、それが奥さんとの出会いだった。
顔が丸くて可愛くてタイプだったので、退院後も連絡を取り続けました。
今だったらストーカーかもしれないね。
 
奥様「めんどくさい奴が来た。と思った。」
 
手紙のやり取りや電話を続け、たまに家にも会いに来てくれた。
出会ってから10年後に結婚した。
 
結婚の決め手はなんですか?
奥様「その頃職場で、夫のパンツを一緒に洗えるか?という話題があり、何気なくこの人のパンツなら一緒に洗えるかな、と思った。あと、人といるとしゃべらなくちゃいけないという切迫感があって息苦しかったけど、この人とならしゃべらなくても不思議といられた。」
 
“わたしはちょっと特殊だから。カトリックなの。”と告白されたが、僕はプロテスタントの母に育てられたので(元をただせば同じキリスト教だから)別に特別なことだと思わないよと伝えた。
 
宗教観が一致したんですね?
 奥様「それはあったかもしれないですね。」

出会った頃のお二人

 
 
 
5.結婚生活について
結婚してからの生活はどうなりましたか?
 
旅行など、出かける機会が増えました。
それまでは出かけるといってもほんの近場だけだった。
公共交通はほとんど乗れない時代だったので、結婚を機にキャラバンの福祉車両を買った。
最初は車で移動していたが、JRやバスが少しずつ乗れるようになって、公共の乗り物にも乗るようになった。
どちらへでかけましたか?
神奈川や、岐阜の長良川。
2000年に初めて海外にも行った。イタリアのローマ、香港。
2010年にポルトガル。台湾。スペインの教会にも行った。

 

 
旅行用に簡易電動車いすも用意した。
それは、旅先でバスに乗るために必要でした。
本当は、靴を履き替えるように目的に応じて車いすもあったほうがいい。
 
-もし電動車いすが無かったら、どんな生活をしていたと思いますか?
 
奥さん「それは考えられない。運転もして、車いすも押して、介助もしてたらヘトヘトになって喧嘩になっちゃう。手動ででかけたこともあったんですよ。どうしても手動でなくてはだめで。いい加減嫌になっちゃいました。買い物をするにしても、私の主観で見たいものを見て回るのと、この人が見たいものは違うので凄いストレスになっちゃう。」
 
-例えば健常の人から見ると、二人で出かけているなら(手動車いすを)押してもらえばいいのでは?という発想になりがちですが、どうですか?
 
押すのだって坂道もあれば、でこぼこ道もあるし結構負担になるでしょ。
それに人に指図されて、その通り動かないといけないのはストレスになる。
 
-もし、手動車いすにのって買い物にいくとしたら?
 奥様「行かない。動きたくなくなっちゃう。」
 
 
 
6.電動車いすとは
手足と同じ。
手足が無ければ、生活の豊かさが無くなってしまう。
仕事。遊び。社会活動に必要不可欠なもの。
もし電動車いすが無かったら、外には出かけずに家の中にいるでしょう。
電動車いすのない人生は考えられません。
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